議論のレッスンを始めませんか?

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スポーツと同じように議論にもルールがある(新版議論のレッスンのp72-p78)

サッカーを実況中継している解説者が興奮ぎみに「ゴーーーーール」と叫びまくり、サポーターは上を下への大騒ぎをしています。こんな情景をときどきテレビで見ます。どうしてサポーターは大騒ぎをするのでしょうか。それはもちろん自分の応援するチームが得点したからです。それではどうして得点したことがサポーターに分かるのでしょうか。それはサッカーのルールとして「手以外の体の一部を使って送り出したボールがゴールネットに入れば得点になる」ということを知っているからです。読者のみなさんはここまでの話を読んで「なんとバカバカしくあたりまえのことを言っているんだ」と思われるでしょう。しかしそうおっしゃらずに、もうすこし私の話を聞いてください。

ある一定のルールがサッカーという競技をはじめる前に決定されています。そのルールは競技に参加するすべてのプレーヤーに、そして観衆に承認され共有されています。その共有されているルールに則って競技がなされるからこそ、勝敗が決定でき、ゲームに意味が生じるのです。すなわち、ルールに照らし合わせて観戦できるからこそ、何が有効な得点であり、また、なにが有効でない得点であり、さらに、何がイエローカードに相当する行為なのかが判定可能となるのです。ですから、自分の応援するチームがゴールして大騒ぎをすることはあたりまえな出来事ではなく、ルール支配のなせる技なのです。言い換えるなら、ルールとはゲームの最中に何かが起こったとき、それがゲームにとってどんな意味をもつことなのかを判断する基準なのです。

仮にルールが決まっていないサッカーを考えてみましょう。どんなことになるでしょうか。試合会場に行ってみると、あるプレーヤーはアメリカン・フットボールの防具を身にまとって、野球のバットのようなものを持っています。そしてそのプレーヤーは相手を好き勝手に倒し、そのバットでボールを打ちこもうが、足で蹴ろうが、とにかくゴールすれば得点になるのだと言っています。また、他のプレーヤーはボールを足で蹴る必要などないと言っています。このプレーヤーはゴールの際にはボールを手に抱えてゴールすると考えているのです。  

こんな調子で22人のプレーヤーが各自自分なりのルールを持ちこんで試合を開始したら、何が起こるでしょうか。恐らくは、自分のルール以外でゴールした場合、そのゴールは認めないと言い張るでしょう。互いにそのような主張をする22人がいる訳です。そうなると、何を有効な得点として考えればよいのが分るはずはありません。また、何をしたらイエローカードに相当する行為になるかも不明のままです。これではなにがなんだか分からないばかりか、そんなゲームを見にくるサポーターもいないでしょう。

議論にはルールがある

前置きが長くなりましたが、私が申し上げたいのは、スポーツと同じように議論にもルールがあるということです。より正確にいうなら、「生産性のある議論をしようとするならルールがあったほうがいい」ということです。

たとえば、より分かりやすい議論をするのであれば、「論証の形をとっていること」が基本ルールです。すなわち、主張があり、それを導くための根拠があり、さらに「隠れている根拠」が呈示されれば最高です。また、根拠の適切性、「根拠からどのようにしてある特定の主張が導かれたのか」の導出の妥当性について吟味することもルールということになります。

サッカーと同様、議論のルールを適用するときに守るべきは、議論の参加者すべてに同じルールが事前に承認され、議論がそれに則って行われることです。そうでないと、どんな議論がより有効(ゴールに相当する)であり、どんな議論が相手に対する非礼行為(イエローカード)であるか、誰にも判断ができないことになります。つまり、皆が共有できる議論のルールを参照枠としながら議論をすすめることにより、議論におけるルール違反も見つけられるということです。

ルールの適応についてここで注意が必要なのは、どのような議論をどのレベルでするのかということと、その際に使われる議論のルールとは大いに関係があります。ですから、すべての議論に同じルールが適用されるわけではありません。本著では言及しませんが、例えば、科学的議論をする場合と、道徳・倫理・宗教などについて議論する場合、同じルールを適応するのは困難です。その意味において、これこれしかじかの議論をするにあたり「どの議論ルールがベストか」を議論する余地があることを念頭にいれておく必要は当然あります。

実際の議論では議論のルールなるものが議論の参加者に共有されていない場合がほとんどです。ですから、その場を感情的に支配する人のルールが通ってしまったり、議論の場面、場面でそのルールが知らぬ間に変わっていたり、一番「偉い人のルールに泣く泣く従わざるをえなかったりすることになるのです。

一般に、議論では審判にあたる人がいません。ある意味参加者ひとりひとりが異なる判断基準をもつ審判になっているのです。異なるルールをそれぞれが持ち込むサッカーのゲームと同じです。ですから、サッカー以上に議論では、不正なルールがはびこる余地があるのです。 

「基準があるから評価できる」

ここまでお読みになった読者のみなさんは、ルールのない議論がどんな様相を呈するかは簡単に想像できるでしょう。例えば、議論の参加者のひとりがあなたには明らかに「白」に見えるものに対して「これは黒だよな」とナイフをあなたの首もとにつきつけ言い寄っています。あなたは仕方なくそれが「黒である」ことを認めざるをえません。また、ある人はヒットラーよろしく自分の意見の優秀性だけを激しい調子で主張しつづけています。それでいて、主張の裏付けは全く呈示されません。さらに、ある人は「コンビニで買ったおにぎりの海苔がまずかったのは、○○湾の堤防により海流に変化が生じたからだ」とどなっています。根拠の適切性についてはまったくお構いなしです。読者のみなさんはこのような人たちと議論をする気になるでしょうか。

ここであげた例はもちろん、わざと誇張したものですが、これに近い議論を私はときどき実際に経験します。最初の乱暴な論法は本人が自分の議論の恫喝性に気づいていない場合も含めます。その場においてより立場の強い人はより弱い立場の人にこのような論法をつかっていないでしょうか。また、ヒットラーの例のように根拠を提示しないのに主張だけが述べられるケースもよくあります。これも「議論のルールを無視した乱暴さ」という点において、はじめの例と根は同じです。特に感情的に主張をくりかえすような場合はやりきれません。また、おにぎりの海苔の例では、根拠が提示されて論証の形式になったかと思うと今度は根拠と結論との間にあまりにも大きな飛躍がありました。こうしたケースも珍しくありません。

このように各自が自分なりの議論のルールを持ちこむと生産的な議論ができないのは一目瞭然です。これらの議論(?)は、議論のルールに照らし合わせて修正していけば、「議論可能」なよりよい状態になるのです。

議論のルールをサッカーのルールとのアナロジー(類比)で話す場合に誤解しないように気をつけたいのは、議論は必ずしも白黒が明確につく試合ではないということです。ある人の議論がより有効(ゴールに相当)であることを議論の参加者の大多数が承認するような場合でも、それは必ずしも、その人の議論が絶対的に正しかったことを意味する訳ではありません。

議論の勝ち負けより重要なのは、議論の評価をする必要がある場合に、その議論をある「基準」または「ルール」に照らして評価できるということです。すなわち、基準があるからこそ、他者の議論だけでなく、自分の議論に対しても評価ができるのです。「あなたの考え方は誤っている」とか「あなたの論証には問題がある」と誰かに指摘された場合でも、それに対してむやみたらに反発するのではなく、その指摘の正当性を「ある基準またはルール」に照らし合わせることで自分でも承認できるようになるというわけです。

このように議論のルールについての一定の理解を議論の参加者が共有できるのであれば、議論における「ゴーーーーール」がより見えてくるのではないでしょうか。議論に関して「ある基準またはルール」を自分のなかに持つことは、自分の議論をある程度突き放して眺めるということにほかなりません。

「新版議論のレッスン」2018年より