議論に関して、ひろゆきはアリストテレス派、米山は論理・実践独立派だ!!
ここではYoutubeに見られる議論を題材に「議論とは何か」の理解を深めるための提言をします。そして、その提言を背景に、youtubeでの議論の質が向上すればそれに越したことはありません。議論に関する基本的な理解に興味のある方は拙著「新版議論のレッスン」NHK出版新書(2018)をご参照ください。本ブログにも一部拙著の紹介を載せておきました。なお、このBlogは更新し続けます。
日本での議論(YOUTUBEでの議論を含む)の現状は悲惨だ!!
Youtubeで様々な議論、討論等々が繰り広げられています。その中には「ひろゆきに問う。No論破。理解し合う議論は。ひろゆき&米山隆一が共演!面白い議論は成立する?」(ABEMA NEWS)のようなタイトルを掲げて、一見、「議論とは何か」について話し合うようなものも見受けます。これを視聴してみると、話し合いの内容は「議論そのもの」についてではありません。そうではなく、「議論というものについてどう思うか」、「議論をする時のマナーはどうあるべきか」、「エンタメとしての議論とはどうあるべきか」等々のトピックを扱っているだけです。
例えば、「国葬はするべきか、するべきではないか」が議論の対象であれば、「国葬そのもの」について議論します。それと同じように、「議論はするべきか、するべきでないか」が議論の対象であれば、「議論」について話す必要があるはずです。しかし、それが全くできていません。
そもそも、番組の参加者が「議論がなんであるか」が分かっていないようですから、議論の対象がなんであれ、議論ができないのは無理はありません。議論の現状は悲惨です(一部の除いて)。より厳密に指摘するなら、議論どころか、通常の話合いもうまく行っていません。問題は何もyoutubeで行われている議論だけに限りません。国会での審議、テレビ・新聞等々のマスコミの議論、記者と議員のやりとり、大学の教員と学生の議論等々、日本の社会では多くの場面で議論がうまく行っていないのです。
議論についての議論をするということ
国葬についてはそこそこ議論ができているようなのに、「議論について」はなぜ議論ができないのでしょうか?それは、「議論とは何か」を俯瞰してみることをしていないからです。ここで誤解が生じないように、一言お断りをしておきます。「議論とは結論を出したり、相手との合意形成のために行うものである」という記述は、議論の目的、議論の用途の話です。つまり、これは「議論そのもの」についての記述ではありません。本ブログでは、「議論そのもの」についてお話しをしていきます。
人は議論をしている時には、その議論の対象となる内容(例えば、国葬)に集中していますので、「議論が」何についてものであるかは理解しているはずです。ところが、議論の最中に、その議論を一旦突き放して、俯瞰的に「議論とは何か」を語ることなどしません。つまり、議論の最中に、そこに登場する具体的な事項を、議論の構成要素にいちいち変えながら話を進めることは、まどろっこしてできません。しかし、議論を俯瞰するスキルを議論の参加者は持っている必要がります。そして、議論が混乱し、話が噛み合わなくなったら、一度、議論をストップして「議論自体を」語る必要があるのです。少なくとも、司会者はこれをいつでもできる状態にしておかなくてはなりません。一般に、討論者に欠けているのは、「議論が」語っている内容を「議論を」語る言葉に変換できないことにあるのです。これが議論を整理できないということです。
議論を分析するための道具をまず揃えよう。
「議論が」を「議論を」へ変換するはじめの一歩は、議論をどう定義するかです。議論という言葉は多義語(複数の意味を持つ)ですので、一人一人が議論とは何かについて独自の定義・見解を持ちうるものです。ですから、理想的には、議論を開始する前に、それぞれの人が持つ議論の定義を確認しておくのが大事です。
ここでは、議論=論証(reasoning)として定義します。つまり、議論を一旦、論証に置き換えます。より具体的には、「論証とは、何からの根拠(事実が望ましい)をもとに、何らかの主張や結論を導くこと」を指します。例えば、「ロンドンはよく雨が降る。だから、明日も雨だろう」は論証です。なぜなら、「ロンドンはよく雨が降る」が根拠で、そこから、「明日も雨だろう」という結論が導かれているからです。
「根拠。だから、主張・結論」の形式さえ整っていれば、全て論証です。もっとも、論証の良し悪しや質の問題は別途考える必要がありますが。例えば、「今日の天気は素晴らしい。だから、明日は株価が上がる」というのも論証ではありますけど、誰もこの論証を信じて、株を買う人はいないでしょう。
論証の構造は内容の難易度とは関係がありません。ロンドンの雨と明日の天気の話であっても、政治・経済・法律・科学等々の学問的で高度な内容であっても、同じ論証構造が使われます。つまり、論証の構造に注目することにより、どの学問分野での議論にもツッコミができるようになります。これが議論を俯瞰する時に論証が鋭い分析ツールになる理由です。
根拠を提示してもらえますか?
ひろゆきさんはいつも、「根拠はなんですか?」と相手に質問します。論証の一つの要素である「根拠」は理想的には事実である必要があります。議論の最中に相手から「あなたの主張(結論)の根拠を示してください」と言われたら、自分の使っている根拠が事実であることを示さなければなりません。「事実とは何か」は掘り下げると哲学的な話になり煩雑ですので、ここでは取り上げません。
一般の議論で使われる根拠はその出典が示せる必要があります。Youtubeでの議論では、「あなたの主張の根拠はなんですか?」と聞く人はいますが(例えば、ひろゆきさんはよくそう発言します)、論証に使われている根拠がどこから引用されたものなのか、その根拠がどのようにして得られたのか、そこ根拠はどの程度信頼できるのか、などのツッコミをする人はまずいません。本当は、そこまでおさえる必要があるのです。ひろゆきさんは、相手の主張の裏をとる場合に、根拠を提示するように相手に要求しますが、その根拠の出どころや、根拠の信頼性についてまで確認しようとはしていません。
論拠ってなんだ?
例えば、「ロンドンはよく雨が降る。だから、明日も雨だろう」だけで論証が完結しているように感じるのですが、実は、完結していません。なぜなら、「ロンドンはよく雨が降る」という事実の中に、「明日も雨だろう」が意味的に含まれているわけではないからです。「ロンドンはよく雨が降る(根拠)」という事実を提示したところで、必ずしも「明日も雨になる(結論)」とは限りませんね。明日は晴れるかもしれません。つまり、「明日も雨だろう」という結論は、「ロンドンはよく雨が降る」という事実から「飛躍」し、推測して得た結果なのです。ですから、仮に根拠が真実だとしても、結論は必ずしも正しいとはいえません。このような論証を帰納的論証と言います。この飛躍がある以上、「どうしてこの飛躍はOKなのか」を保証する必要があるのです。
論証基本フォーム:論証の図的表現
論証基本フォームを使って論証をみます。論証を図式するには中央に推測バーという線を引き、その上に根拠、その下に主張を書きます。この形を論証基本フォームと言います。主張(結論)は、推測バーを飛び越えて、初めて導けるものです。根拠は理想的には経験することのできる事実です。これを経験的事実と言います。一方、飛躍の結果導かれた主張は、直接に経験できないので、非経験的事実と言います。この用語を使う場合、論証とは、経験的事実から非経験的事実を導くこととなります。これを意識すると、根拠さえ出せば自分の主張が通るわけでないこともわかります。
論証を整えるには何が必要か?
それでは論証は何を満たせば成立するのでしょうか?それは、「根拠、だから、主張。なぜなら、論拠」という3つの要素を全部提示した時に、論証が成立します。論拠は聞き慣れない言葉ですね。「論拠」とは、「この根拠を使うと、どうしてこの主張が導けるのですか?」という問いに答えるための理由のことです。つまり、一旦、終わったかに見える論証であっても、その論証にはさらなる質問ができるのです。根拠とは「あなたの主張には何か具体的な証拠、事実がありますか?」という問いに答える時に必要なものです。一方、論拠は「あなたが今提示した根拠を使うとどうしてその主張が可能なのですか?」という問いに答えるものです。これに答えるにはもはや根拠(事実)は使えません。
この例に論拠を追加すると次のようになります。「ロンドンはよく雨が降る(根拠)。だから、明日も雨だろう(主張)。なぜなら、自然の成り行きは将来も一貫して変わらないから(論拠)」となります。この「自然の成り行きは将来も一貫して変わらないから」というのが論拠に当たります。(この論拠はヒュームという哲学者によって自然の斉一性と命名されています)この論拠という理由があって初めて、「ロンドンはよく雨が降る」と「明日も雨だろう」が論理的に結合できるのです。
ちなみに論拠は事実ではなく仮定です。また、根拠、主張、論拠の3つの要素が議論に必要であると提案したのはStephan Toulmin(1956) というイギリスの分析哲学者です。そのため、この論証の形式を「トウールミンの論証モデル」と言います。
論拠に慣れることが議論に慣れること
ここまでお読みになった読者は、「根拠、だから、主張」まではわかるけど、「論拠」はわかりにくいとお感じになったと思います。「ロンドンはよく雨が降る。だから、明日も雨だろう。」といったごく簡単な論証であっても、その論拠の推定は簡単ではありません。どうして論拠の推定が難しいかの理由も多々あるのですが、一つの理由は、一般に私たちはよりフォーマルで、論拠まで含む丁寧な論証(議論)をしたことがないからです。ですから、丁寧な議論をするには普段からの基礎トレーニングが必要なのです。その基礎トレーニングなしで、国葬に関する議論はできません。拙著「新版議論のレッスン」(NHK出版新書)には論拠を推定するための練習問題が用意されていますので、そちらもご覧になってください。
一般に行われている議論を論証(根拠、主張、論拠)という視点で見ると、一般の議論はかなり雑なやりとりになっているのが分かります。例えば、ある人が自分の議論の要素(=論証の要素である根拠、主張、論拠)を議論の場に全て出し切れていない状況で、相手がその人の議論に噛みついてくるような場面をよくみます。議論に足りていない根拠を出すのは最低限しなくてはなりませんが。まずは、議論の場に論証の3つの要素(根拠、主張、論拠)を出しましょう。それが出揃ってからです、議論が開始できるのは。そして、相手の議論に必要な要素が足りていない場合、どこか不足しているかを指摘し、議論を整えるのを相手と共同作業でやってもいいかもしれません。
ここまでのまとめ:議論を俯瞰するための道具の再確認
論証とは、「根拠・事実。だから、主張・結論。なぜなら、論拠(仮定)」のことを指します。このように、議論という多義語を論証に置き換え、かつ、論証の3要素を決めておけば、「議論」なるものの構造が明確になるのです。ポイントは論証の構造はこの3つだけということです。言い換えるなら、議論の構造もこの3つ以外は議論には直接関係がないと考えておいて問題はありません。そして、議論の上で問題になるのも、この3つの要素のどれかなのです。これをまず、前提として押さえておきましょう。
また、議論の出発点で根拠として使うのは事実が理想的です。ですから、推測や単なる自分の意見は根拠としては使えません。自分の主張や結論は必ず引用先、出典が明確に示せる事実を使用しましょう。
話合う時のルールと、分かりやすく話すときの工夫とマナー
複数の人が集まって話あう時に守るべき最低限のルールがあります。また、発言の内容を相手に分かりやすく伝える場合の工夫がありますので、これについてのルールをあげます。ルールですが、ルールを守り実行するには意識的な自習が必要です。知っているだけでは意味がなく、実際の場面で使う必要のあるルールです。
①相手から質問されたら、まずは、その質問に直接関係のあることを答えるようにします。このとき、注意したいのは、質問から連想することや、その質問と関係のないことを答えるのはルール違反です。
②相手が話している最中に、口を挟まない。相手の話が終わるまで聴くことが大事です。相手の論証の要素全てが揃っていないのに、それへの質問、批判、反論などできるはずがありません。
③自分が発言する時には、できるだけ簡単な一文一義にします。一文一義とは言いたい内容をできるだけ簡単な論証の形式にすることです。つまり、何が根拠で何が主張かを示すことです。自分の発言が論証でない場合でも、1つの発言内容を、1つの主語と述語からなる、簡単な文として完結しましょう。
④発言する時には、書くように話ましょう。つまり、文章を書く場合には、「、、、と思っていて、その点についてはそう考えることもあるのとか、、これこれはこうなので」のようにという表現で終わることはしません。「、、、と思ってます。その点についてはそう考えることもあります。これこれはこうです」のように、各文の終わりを完結するように話ましょう。
⑤自分のある発言と、その直後の発言の関連性を接続詞を使って明示できるようにしましょう。接続詞のトレーニングは別途必要ですが。
いよいよ「ひろゆきに問う。No論破。理解し合う議論は」(ABEMA NEWS)を検討する
まずは最初に添付してあるYoutube,「論破禁止 ひろゆきと米山隆一が共演。面白い議論は成立する?」をご視聴ください。また、このYoutubeの内容は文字起こしをしてあり、「論破禁止」というタイトルでファイルにしてありますので、そちらもご確認ください。音声で聞く議論はどんどん進行していきますので、誰が何を発言しているかは注意して聞かないと分かりません。そのあたりをちゃんと押さえるには文字で読むのが一番です。
さて、議論を俯瞰し、議論の問題点を指摘する場合に使う、道具(論証の3つの要素)が揃いました。ここからは、この道具を使って、実際のyoutubeでの議論を俯瞰的に見ていきましょう。
解説の基本方針
ここでの解説の基本方針は以下のとおりです。①youtubeでの発言をそのまま引用し、どの点が論証として問題があるのかという観点からっているから見ていきます。②話し合う時のルール違反について触れます。③議論の交通整理役である司会者の発言についてもみていきます。なお、本番組を文字起こしするとかなりの量になります(A4サイズの用紙で約30ページ)。ここでの話し合いのあり方、進め方、交通整理等々はあまりにも問題がありすぎて、全てを網羅することはできません。そこで、ごく一部を取り上げます。出演者に共通してみられる論証上の問題点をいくつか取り上げ、解説することにします。見出しは話の内容に大まかなタイトルを私がつけたもので、番組がつけているものではありません。話が出てきた順番に沿って用意しました。
マナー違反と、司会者の質疑応答への対処
司会者が議論についてどう思うか質問し、それに対して山崎さんが答えています。山崎さんの答えには問題がありますが、そもそも司会者の質問が曖昧ですので、仕方のないことでもあります。本番組を企画する時点で、この番組で話あう内容のターゲットは何かが相談されていないのではないでしょうか。これが不明なまま番組がスタートしているなら、内容が曖昧模糊とするのも当然ではありますが。
司会者:はい、ということでね。今年も様々議論してきましたけれども、お二人、まずどう思っていますか。山崎さんいかがですか。
山崎:私自身はアベプラ見ていて「論破された、してるか」っていう観点では見たことがないので、はい、「なんか論破した」って言われたりとか、「論破されたな」って言って嫌な思いするんだったら、別に無理して関心を持たなくてもいいのかなっていう気はしてて、いらつきを発してるっていうことに対して喜んで言ってくる人も、もちろん中にはいるだろうから、その栄養分を与えないで、気にしなければいいだけなのかな、という気もする。自分の視界から見ないようにするっていうのもありなのかなと思います。
解説:
ルール①の違反:議論についてどう思うかと聞かれて山崎さんは、議論そのものについてどう考えるかについて返答はしていません。これは質問に直接答えていない点でまずマナー違反です。司会者自身が「議論とは何か」についての基本的認識を持ち、かつ、質疑応答の基本ルールを押さえている必要があります。その準備ができていれば、山崎さんからの返答の直後に、「私がお聞きしているのは、議論・論破にについてどう思うかではなく、議論そのものについてです」と質問の趣旨を明確にすることができるはずです。相手からの返答がこちらの質問と意味的に噛み合わない(論理的にリンクしていない)時に、それをスルーするのはまずいです。ちなみに、山崎さんに限らず、本番組の出演者で、「議論」自体について言及した人はいませんでした。
ルール①の違反:論破をキーワードにしていますが、「論破すること」とはどんなことかを特定してはいません。論破ということ自体に無関心であれば「嫌な思い」をする必要も、「悪い思い」もしないで済むという趣旨のことを言っています。ですから、論破することことはいいことではないと思っているのでしょう。また、議論について「嫌なものは無視すればいい」と言っています。議論をテーマに討論会をしているのに、議論や論破を嫌なものとして無視するという主張は、番組のテーマとその趣旨の無視につながってしまいます。この点に関しても、司会者はその場でそれを指摘するといいでしょう。それによって、他の出演者にもそれ以降のやりとりの方法について再認識ができますので。
ルール④の違反:また、論証が意識されていないため、発言が取り止めのない状態になっています。(これは出演者全員が同じ状態です。出演者の方に、ご自分の発言の文字起こしを一度ご覧になれば一目瞭然です)発言を可能な範囲で一文一義にするといいでしょう。
発言の最初の部分ですが、「①私自身はアベプラ見ていて「論破された、してるか」っていう観点では見たことがないので、②なんか「論破した」って言われたりとか、「論破されたな」って言って嫌な思いするんだったら、③別に無理して関心を持たなくてもいいのかなっていう気はしてて」と文が完結しないまま続いています。
ここの発言は3つの文からなっています。①は「、、、ないので」で終わっていますから、この内容は根拠を示しています。ですから、論証の形式で発言するには、「①私自身はアベプラ見ていて「論破された、してるか」っていう観点では見たことがないです。だから、(実際には、ここになんらかの結論の発言が必要です)」という形にします。こうすることで、自分にとっても、聞いている相手にとってもわかりやすい論証になります。ここでは、根拠だけを出していて、主張、結論を出していません。根拠と結論をペアにして発言するする癖をつけるといいでしょう。
文を簡潔にし、かつ論証を意識した発言にするなら、次のようになります。
私自身はアベプラ見ていて「論破された、してるか」っていう観点では見たことがありません。「なんか論破した」って言われたりとか、「論破されたな」って言って嫌な思いするんだったら、別に無理して関心を持たなくてもいいと思います。いらつきを発してるっていうことに対して喜んで言ってくる人も、もちろん中にはいるだろう。だから、その栄養分を与えないで、気にしなければいいだけなのかな、という気もする。自分の視界から見ないようにするっていうのもありなのかなと思います。
自分の考え・主張を論証ベースにすると話がわかりやすくなる
若新:でもあの真面目にコメントすると、2018年にひろゆきさんが出したあの「論破力」って本があるんですけど、そこでひろゆきさんが、やっぱ、議論を行うための前提、ブームが起こる前から、前提をどうデザインするかっていうことを結構こと細かく書いていて、これがすごい秀逸だと僕は思ってるんですよ。
前提は、ジャッジは誰かってことを本に書いてて、今の話ってやっぱりツイッター上の議論とかこれ番組上の議論でここに審判がいて、裁判官がいて、あるいはその何か学会で言うとこなんか審査員が行ってジャッジするわけじゃなくて、(ジャッジは)オーディエンスじゃないですか。たくさんのオーディエンスが判断するってことは、ひろゆきさんはすごい僕は上手に捉えているのかなと思って、、。
オーディエンスが一般の多数の人であると、別にその場所によっては議論にあの、その人が過去何やったかは裁判とかは関係ないですよねって言えるし、学会とかだと、その人がどういう研究者だったかってことの個人的なことと、研究成果の発表は関係ないんですけど、僕らが巷できく議論というのは、「お前こんなことやってたのにお前が言うかよ」っていうふうな感情を一般のオーディエンスを持つっていうのが人間らしさだと思うんすよね。ひろゆきさんは、常にオーディエンスをジャッジとして捉えてるっていうところが僕はあるんじゃないかなと思っていて、それを「関係ないよ」っていくら言っても、誰が議論を見てるかっていうことは結構でかいし、この番組も誰に向けてやっているかっていうか、視聴者を全く無視してやってれば、何か審判とかルールとかがあればいいんでしょうけど、僕らやっぱりオーディエンスにちょっと媚びてるところといういうか、オーディエンスを気にしすぎてるところもあるんだろうなと、そこに関してひろゆきさん、すごい僕はやっぱりものすごく捉えて秀逸かなって思う
解説:話し言葉ですから、文法的や誤りや、主語と述語の対応がなかったり、わかりづらい主語の省略があっても仕方のないところです。しかしながら、議論の参加者や視聴者にわかりやすく話すのは出演者が心掛けなくてはいけないことです。若新さんの発言は、この番組を通して、一貫してわかりにくいものになっています。そのことは、文字起こししたものをご自分で読めば一目瞭然です。
この箇所の最初の部分を見ます。「議論を行うための前提、ブームが起こる前から、前提をどうデザインするかっていうことを結構こと細かく書いていて、これがすごい秀逸だと僕は思ってるんですよ」の部分は論証をしています。つまり、「(ひろゆきさんは本の中で)議論を行うための前提、ブームが起こる前から、前提をどうデザインするかっていうことを結構こと細かく書いていいる(根拠)。だから、これがすごい秀逸だと思う(主張)。」という論証です。論拠は何でしょうか?つまり、前提のデザインが細かく書かれていると、どうして秀逸なのでしょうか?この論拠を推定することで、若新さんが秀逸であることをどの視点から仮定しているかが見えてくるのです。
自分の主張のコアを最初に言ってしまう。無駄は挿入文を取り外す。
「オーディエンスが一般の多数の人であると」から始まる発言は相当にはちゃめちゃです。意味的にひとまとまりになると思しき場所で区切ってみます。そうすると、「僕らが巷できく議論というのは、『お前こんなことやってたのにお前が言うかよ』っていうふうな感情を一般のオーディエンスが持つっていうのが人間らしさだと思うんすよね、あたりですね。そうであれば、これをまず最初に発言するといいでしょう。そして、ここも論証していることに気がつくといいでしょう。つまり、僕らが巷できく議論というのは、『お前こんなことやってたのにお前が言うかよ』っていうふうな感情を一般のオーディエンスが持つ(根拠)。だから、一般のオーディエンスは人間らしい(主張)、という論証です。論拠はどうなるでしょうか?ここはひろゆきさんの発言(道徳的に振る舞えない人間は、道徳に関する発言をするべきではない)のバックアップですから、論拠はとても重要になります。
ちなみに、若新さんの「、、別にその場所によっては議論にあの、その人が過去何やったかは裁判とかは関係ないですよねって言えるし、学会とかだと、その人がどういう研究者だったかってことの個人的なことと、研究成果の発表は関係ないんですけど」は必要ありません。このような周りくどい挿入文があると、自分の言いたいことが何か相手に伝わらなくなります。また、挿入文が長いと、自分の発言の主語と述語の関係が見えなくなってしまいます。
「ひろゆきさんは、常にオーディエンスをジャッジとして捉えてるっていうところが僕はあるんじゃないかなと思っていて、中略。、、、そこに関してひろゆきさん、すごい僕はやっぱりものすごく捉えて秀逸かなって思う」の箇所は論証をしています。つまり、「ひろゆきさんは、常にオーディエンスをジャッジとして捉えてる(根拠1)。誰が議論を見ているかは大きい問題である(根拠2)視聴者は無視できない(根拠3)僕らは視聴者を気にしている(根拠4)。だから、ひろゆきさんは秀逸だ(主張)。」という論証です。ここも、色々と根拠はあげていますが、論拠には触れていません。
ちなみに、今回の議論では論証について知っている出演者はいなかったと思われなす。ですから、論拠についても知っているはずはありません。そこで、各発言者に対して提言したいのは、論証の基礎を勉強して、自分の発言に論拠まで含められるような議論をするといいでしょう、ということです。本人が知っているはずなのに、それを発言していないという意味の指摘をしているわけではありません。
司会者の質問の内容と、それへの返答が論理的に噛み合わない。
司会者:ありがとうございますこれいきなり本題に入っていきますね。この打ち負かさない議論っていうことで様々な声があるんですけど。例えばね、高圧的な話し方とか、個人攻撃とか、相手を詰めないというのも入ってますね。でも今おっしゃったみたいにね、確認するために聞かなきゃいけないことっていうのはありますよねと。主義と主張とか、その根拠を知るために確認するんだけれども、詰めてる様子は結構見てる人はしんどいと思ったりもすると、ここをまずどう考えたらいいのかというところから入りますかそうすると、ひろゆきさんどうですか。
ひろゆき:例えば嘘ついてる人がいて、嘘ついてるよねって言わないままそれがメディアで流されました。それを聞いた人がみんなそれに騙されましたって、被害者が生まれちゃう行為なので、僕は、それはメディアでやるんだったら止めた方がいいんじゃないかなと思うんですよね。
司会者:そうですね。ここはひろゆきさんと私もちょっと賛同するとこがあって、間違えているのかどうかの確認のために、何を根拠にそれをおっしゃってるのか、っていうのを聞くんですけども、この本当にあれですね、言い方、話し方の問題で、、
解説:本事例では、「打ち負かさない議論の仕方って?」という表が提示されています。そして、司会者もその表に書かれていることを読み上げています。注意したいのは、議論の相手を打ち負かさない時のルールです。それを受けて、司会者はひろゆきさんに意見を求めています。質問の趣旨がわかっていれば、返答の内容は、議論の相手を打ち負かさないことに関する何かである必要があります。それが、質問と答えが論理的に合致しているということです。
ところが、ひろゆきさんは、メディアを通じて議論をする場合、そこに嘘が含まれているのはよろしくないと発言しています。発言内容自体は正しいことを言っています。しかし、司会者の質問とは関係がありません。なぜなら、「議論で嘘をつかないこと」は議論の一般的なルールであり、議論の相手を打ち負かさないためのルールとは直接に関係がありません。
このように質問の趣旨と相手からの返答がずれている場合は、山崎さんと司会者のやりとりにもあったとおり、その話を聞いた直後に、質問の趣旨に合わせて返答がされていないことを指摘する必要があります。「ひろゆきさんの言っているのは、議論で相手を打ち負かさないための工夫とは直接に関係がありませんね。相手を打ち負かさないためにはどんなことに配慮すればいいでしょうか?」と聞き直すのです。
質問とその答えが合致しているかどうかを確認することはとても大事なことなのです。複数の発言の間に意味的に関連があること、または事実関係としてリンクがあること、複数の事柄の間に関係性があることが論理的であることの基礎だからです。
ここでは、ひろゆきさんの「嘘はまずい発言」を受けて、司会者は「、、、間違えているのかどうかの確認のために、何を根拠にそれをおっしゃってるのか、っていうのを聞くんですけども、この本当にあれですね、言い方、話し方の問題で、、、。」と、嘘かどうかを確かめるために根拠の裏をとる話と結びつけています。さらに、その時の「言い方、話し方」は注意しないと相手を打ち負かすような議論の仕方になってしまうことを示唆しています。これは司会者がひろゆきさんの発言内容からここでの話題と関係づけられそうな事柄を引っ張り出してその場を凌いだというところでしょう。
ちなみに、ここでのひろゆきさんの発言は、論証の要素を全てカバーしています。論証の形式に整えると次のようになります。「ある人の嘘が指摘されれないままメディアで流され、それを聞いた人がみんなそれに騙されました(根拠)。だから、それはメディアで議論やるんだったら嘘はつくべきではない(主張)。なぜなら、被害者が生まれちゃう行為だから(論拠)。」ただ、注文をつけるなら、根拠部分をたとえ話ではなく、実際に問題になった嘘発言を引用しつつ言及し、主張部分でも実際に報告された被害者の事例も提示してほしいということです。ここでの発言は論証として突っ込むほどのことはありません。
もとの口頭発言は口語体ですから、「根拠。だから、主張。なぜなら、論拠」の順番では出てきません。しかし、相手の発言の論理性を確認するには「根拠。だから、主張。なぜなら、論拠」の順番は分かりやすい順番です。この順で聞くことにより、根拠が事実であるかどうかの質問もできますし、論拠が根拠と主張を繋ぐ仮定になっているかの確認もしやすくなります。この順番で発言することを心がけるといいでしょう。
司会者は視点を高く持ち、議論全体を俯瞰せよ
司会者:なるほど。米山さん、最初にね、スルーしましたけども、それこそもう打ち負かしてもいいんだというぐらいのことをおっしゃってましたけど、その思いをまずちょっと聞いておかないと、前提条件として皆さん共有したいなと思うんですけど。
米山:議論で何のためにするかって、やっぱり一定の結論を出すためにするわけですよね。いや私はバラが好きであなたは菊が好きです。はい、そうですね、というのであれば、そもそも議論する意味ないわけですよ。そうじゃなくて。あの方に、一種類しか売られないとしたら、バラがいいか菊がいいかって話をするわけでしょ。それでそれからバラか菊の話ならどっちかいいかもしれませんけど、やっぱ国葬するしないみたいな話だったらそれはちゃんと詰めなきゃいけない。何らかの形で、それはもしも他の誰かを知らずに傷つけても絶対譲れない主張があるから議論するわけだから、全くその結論出さないなら、そもそもしなくていいじゃんだと思うんですね。ちなみに僕今ね、ひろゆきさんに「嘘でしょっ」て言いたいんですけど、ひろゆきさんまず僕とね、ツイートでこんなこと言ってんすよ。
「国葬に税金を使うのがよくないなら税金から出てる給料で援助交際をしていた米山さん良くないですね、主張に一貫性がない人は道徳まで語りだしたので、(一貫性の)ない人が道徳まで語り出すと頭がおかしくなったかと思いますって思って笑ってしまいました。すいません」って、もうこんなの議論じゃないじゃないですか。これ単なる人身攻撃で、やっぱりそういうふうにちゃんと論として議論をするのはどこまでもやったらいいと思うよ。これが正しいか正しくないかはね。さっきのね、イエスですかノーですかかっていうのも、いや、それは落ち着いて聞けばいいんですよ。イエスですかノーですか、本当ですか、嘘ですかって。でもそれを、「イエスかノーか今言え」みたいなのは、それは相手を驚かせて、びっくりさせて議論を、単に自分が勝っているように見せる、ひろゆきさんってそういうのをひたすら使っているから、ひろゆきさんが、あの議論っていうものをね、みんながなんか敬遠してしまっている。僕の愛する理論道を汚している人だと思う。
司会者:議論道をもうちょっとだけ詰めたいんですけども、要はあれですよね、人と意見を切り分けるっていうのは、そこはちょっと言っておいてください。
解説:ここはまだ、「打ち負かさない議論の仕方って?」のテーマが続いているはずです。ところが、司会者は米山さんに対して、彼の議論道に関する質問をしています。司会者は質問に制約をかけていませんので、米山さんは自由に発言を開始します。つまり、何を話してもいい状態です。本来するべきは、ここで司会者は「打ち負かさない議論の仕方って?」の表に簡単に言及し、米山さんの議論道においてはどのようなことを配慮しているかなどの、発言に制約がかかるような質問をするべきでしょう。
さらに、米山さんの発言の後半では、ひろゆきさんの詰問の仕方を批判しています(イタリックの部分)。これは「打ち負かさない議論の仕方って?」のマナーに属することです。ですから、司会者はこの発言を「待ってました」とばかり、拾いあげる必要があるのです。そして、それがリストにある「大声で怒鳴らずに、高圧的な話し方は控える」の例として確認することが大事です。このように話を進めることにより、ある時点で用意された議論のテーマに沿って、論理的(意味的に関連があるの意)な話し合いが継続していることを出演者及び視聴者に伝えることができます。
この番組の構成はあってないようなものとすれば、致し方ありません。しかし、大まかに「出演者の方に当該のトピックで話してもらう時間」の大枠が決められているのであれば、その時間の範囲では、「何がトピックか」を出演者にリマインドさせ続けることが大事です。一般に、出演者は自分が話すべきトピックに持続的に集中することができません。それを常に念頭に入れているのが司会者であるはずです。司会者が、その場、その場の局所的な発言にまともに答えようとすると、脈絡のない、トピック度外しの、その場限りの話になってしまいます。
ひろゆきvs米山の道徳論争?
米山:言うよ。だって国葬の話をしているでしょ、国葬の道徳でしょ。それと僕の道徳は何の関係があるのって答えてくれる、
ひろゆき:道徳は人によって違うものだから。
米山:答えてないから。僕のね、道徳と国葬の道徳と何の関係があるか今答えてくれる?
ひろゆき:道徳は一人一人考えがあって、(道徳は)こうですよっていうときに、その悪いことをしている人が道徳はこうですって言っても、「いやいやあなたは悪いことしてる人じゃないですか、そもそも考え方がずれてません」って、なりません。
米山:そうならない。
ひろゆき:それなら例えば僕が人を殺してました。で人殺した人が「こうやって人が生きるべきなんだよ、正しい人の生き方はこうなんだよ」(でも)お前人殺してるじゃんって話じゃないすか。それで、違うところに関して話す場合であれば、その人がどういうポジションでどういうことをやってきたかとか、どういう考えがあるかっていうのは、聞いてる側は影響を受けるんですよ。
米山:聞いている側は(影響を)うけるよ。聞いている側は影響を受けるけど、死刑が賛成か反対かっていうことに対して、それを議論してるんだったら、殺人犯だって「反対だ」って言っていいんだよ。それが議論というものだからね、それはあくまで死刑というものが賛成と反対がいいかどうかって言ってるんだから、、
ひろゆき:死刑の話はしていません。道徳の話で、、、
米山:その人が人を殺したら殺してないか、その人が道徳的か道徳的でないかは関係ないんですよ。
ひろゆき:米山さんは、(道徳を語る人が)道徳的かどうかは関係ないというポジションというのもわかりました。ただ、聞いている人が、この人が言っていることが正しいと感じるときに道徳がある人、もしくは道徳の欠ける人が言っているのかっていうのも影響はあるので、なのでそれは事実としてあるんだったら、出してほしい。
米山:事実としてあるからね、感じるのは自由だよ。聴く人がいくら感じてもいいよ。どうぞ、と思うよ。でも、それは議論じゃないよね。今、議論しているのは、国葬が道徳的かどうかという議論をしているのであって、僕が道徳的であるかどうかって議論はしてないんですよ。いろんなものをごちゃまぜにして、あなたはそうやって話を混乱させて自分が勝ったったふりをしてるだけなんです。
解説:ここはひろゆきさんと米山さんが道徳に関してそれぞれの主張をしているところです。話し合いが噛み合っていない箇所をまず見ます。次に、二人の主張が論証においてどの点(根拠、主張、論拠のいずれか)で対立しているかをまずは確認しましょう。
米山さんが国葬の道徳と米山さん自身の道徳には何の関係があるのかを、ひろゆきさんに聞いています。それに対するひろゆきさんの返答は「道徳は人によって違うものだから」と関係性に関してではなく、何らかの理由を述べています。語尾が「〜だから」とありますので、この発言が何らかの根拠であることがわかります。
米山さんの関係性に関する質問に、いきなり理由で答えることはできません。関係性とは少なくとも2つ以上の事柄との間に生じますので、その2つの関係性について答えるしかないのです。ここで、ひろゆきさんは理由を答えたので、米山さんは「答えていないから」と言っています。これはひろゆきさんがルール違反をしているのです。おそらくは、国葬の道徳と米山さん自身の道徳との関係性については答えを用意していなかったのだと推測されます。
ひろゆきさんの論証を整える
ひろゆきさんは「道徳的に悪いことをしている人間は道徳に関する発言をするべきでない」という趣旨のことを言っています。なぜなら、どのような人(悪いことをした人なのかどうなのか等々)が発言しているかは聴衆者に影響することだからという理由(これは論拠にあたります)をつけています。(その理由を米山さんは受け入れています。ところが、米山さんは聴衆者がそれをどう受け止めるかは議論とは関係がないとしています。これは後ほど、米山さんの論証の時に解説します)
ひろゆきさんは国葬の道徳と個人の道徳の関連については最初、米山さんの質問に答えることをしていません。しかし、その後、時間的なラッグはありますが、論証をしています。次のような論証です。「道徳的行をできていない人は道徳的なことについて発言するべきでない(根拠)。だから、そのような人は国葬に関する道徳についても発言するべきではない(主張)。なぜなら、聞いている側に(悪い)影響が出るからである(論拠)」というものです。ひろゆきさんの頭の中で、論証の3要素らしきものが揃っていたのでしょう。しかし、その提示順と、論証に必要な要素を提示する時間的なズレがあるために、米山さんにも、他の出演者にも、そして番組の視聴者にもひろゆきさんの主張とその根拠がわかりずらくなってしまっているのです。
ひろゆきさんの論証は形式上は問題がありませんが、論証のルールからすると色々と議論の余地があります。まず、話の抽象度が高すぎます。話の内容が抽象的なのは、この根拠として使われている文自体が論証になっているからです。つまり、「この人は道徳的行をできていない人だ。だから、道徳的なことについて発言するべきでない」という論証です。この主張にたどり着くまでの論証は実は必要なのですが、ここでは触れていません。(根拠は原則事実である必要がありしたね)
司会者が介入して、ひろゆきさんの論証を丁寧に整える必要があります。そうすれば、米山さんとの議論の争点がよりわかりやすくなるはずです。例えば、「道徳的行をできていない人は道徳的なことについて発言するべきでない(根拠)。だから、そのような人は国葬に関する道徳についても発言するべきではない(主張)。なぜなら、聞いている側に影響が出るからである(論拠)」という発言について、司会者が「最初の文は根拠として使われていますが、その文自体が論証になっています」と指摘します。そして「この人は道徳的行をできていない人だ。だから、道徳的なことについて発言するべきでない」という論証に必要な論拠を考えてみましょうと提案します。すぐにいい論拠を推定することはできませんが、考えられる論拠の1つは、「人がある事柄について発言していいのは、その人がその事柄について一切の不正をしてない場合に限る」といったものでしょう。このような論証が成立したら、ここで「(そのような人は)道徳的なことについて発言するべきでない」という主張を、今度は根拠として使い、「だから、そのような人は国葬に関する道徳についても発言するべきではない」という第二の主張をすることになります。
*どこかで、根拠だから主張という論証の結果として主張が根拠に使えることを示しておく。最初の根拠は事実である必要があることを示す。
米山さんの論証を整える
ひろゆき:道徳は一人一人考えがあって、(道徳は)こうですよっていうときに、その悪いことをしている人が道徳はこうですって言っても、「いやいやあなたは悪いことしてる人じゃないですか、そもそも考え方がずれてません」って、なりません。
米山:そうならない。
ひろゆき:それなら例えば僕が人を殺してました。で人殺した人が「こうやって人が生きるべきなんだよ、正しい人の生き方はこうなんだよ」(でも)お前人殺してるじゃんって話じゃないすか。それで、違うところに関して話す場合であれば、その人がどういうポジションでどういうことをやってきたかとか、どういう考えがあるかっていうのは、聞いてる側は影響を受けるんですよ。
米山:聞いている側は(影響を)うけるよ。聞いている側は影響を受けるけど、死刑が賛成か反対かっていうことに対して、それを議論してるんだったら、殺人犯だって「反対だ」って言っていいんだよ。それが議論というものだからね、それはあくまで死刑というものが賛成と反対がいいかどうかって言ってるんだから、、
ひろゆき:死刑の話はしていません。道徳の話で、、、
米山:その人が人を殺したら殺してないか、その人が道徳的か道徳的でないかは関係ないんですよ。
ひろゆき:米山さんは、(道徳を語る人が)道徳的かどうかは関係ないというポジションというのもわかりました。ただ、聞いている人が、この人が言っていることが正しいと感じるときに道徳がある人、もしくは道徳の欠ける人が言っているのかっていうのも影響はあるので、なのでそれは事実としてあるんだったら、出してほしい。
米山:事実としてあるからね、感じるのは自由だよ。聴く人がいくら感じてもいいよ。どうぞ、と思うよ。でも、それは議論じゃないよね。今、議論しているのは、国葬が道徳的かどうかという議論をしているのであって、僕が道徳的であるかどうかって議論はしてないんですよ。いろんなものをごちゃまぜにして、あなたはそうやって話を混乱させて自分が勝ったったふりをしてるだけなんです。
解説:米山さん次のような趣旨の発言をしています。それは「死刑に賛成か反対かっていうことについて議論する場合、仮に発言者が実際の殺人犯であったとしても、「反対だ」って言っていい。あくまでも、死刑というものに賛成か反対かが議論の対象になっているのであり、それについて語ることと、個人の実際の立場とは関係がない」といった趣旨です。米山さんの論証は次のようになります。「議論では殺人犯であっても発言の権利がある。だから、殺人犯であっても死刑制度の賛否について発言しても構わない。なぜなら、議論では自分の立場と発言の内容は独立であるからである。(つまり、人がある事柄について発言していいのは、その人がその事柄について一切の不正をしている、していないとは無関係である)
道徳に関する二人の論証を比べ、対立軸を確認しましょう。
さて、二人の主張はどこで対立しているのでしょうか?また、すれ違いがどこで生じたのでしょうか?二人のやりとりを文字レベルで確認してみると、すれ違いが見えてきます。実際に、議論が行われている最中に、すれ違いの根源がどこからきているのか、リアルタイムで特定するのは難しいでしょう。議論を論証として整理するトレーニングを重ねる必要があります。
ひろゆきさんと米山さんの議論の対立はそれぞれの論証を突き合わせると見えてきます。繰り返しますが、論証の要素は「根拠、主張、論拠」の3つしかありませんので、対立が生じるのもこの3つのどれかなのです。
まず、二人とも、論証に使っている根拠が事実ではありませんので、そこはお互いにツッコミ合える要素です。二人ともそれには気がついていません。次に、主張ですが、その主張を受け入れるかどうかは、主張と根拠の論理的関係が吟味されないと、主張だけと取り出してそれに賛成反対はできません。そうなりますが、慎重に考えたいのは最後の論拠です。二人の論拠を比較してみると、見事に対立しているのがわかります。
振り返っておきます。ひろゆきさんの論証は以下のとおりです。「この人は道徳的行いをできていない人だ(根拠)。だから、この人は道徳的なことについて発言するべきでない(主張)。なぜなら、人がある事柄について発言していいのは、その人がその事柄について一切の不正をしてない場合に限る(論拠)」。一方、米山さんの論証は以下のとおりです。「議論では殺人犯であっても発言の権利がある。だから、殺人犯であっても死刑制度の賛否について発言しても構わない。なぜなら、議論では自分の立場と発言の内容は独立であるからである。(つまり、人がある事柄について発言していいのは、その人がその事柄について一切の不正をしている、していないとは無関係である)
司会者の役目:議論を決裂で終わせずに、少なくとも議論後でお互いの論証構造の理解を促す
こうして、二人の論証の、特に論拠を比較してみると、論拠が真っ向から対立していることがわかります。つまり、二人の考える、議論をする人の資格のあり方に関する仮定が異なっていることがわかります。対立している要素がわかったからといって、そこから二人の間に和解が始まるわけではありません。しかし、議論が深まり、面白くなるのはここからなのです。(実際の番組では、二人が熱くなり始めたので、話を中断させています。)
まず、ひろゆきさんが問題にしたいのは話者から聴衆者が受ける悪影響であり、その心理的反応です。これは、「議論の構造のあり方や、その構造を構成する要素及び要素間の関係」などには全く関係がありません。レトリック(修辞法)には、大衆の感情に訴える議論の仕方がありますので、議論を社会的な単位でする場合、このことは重要です。
ここでは深入りはできませんが、アリストテレスは「弁論術」のかなで、3つの説得の手段について述べています。1つは聴衆に対して、論者、発言者の「性格」が信頼に値すると思わせることによって説得するというものです。2つ目は「感情」です。聴衆の感情を利用して、聴衆が論者のいうことを受け入れるような気分に引き込むということです。つまり、聞き手自身が説得の手段になっているということです。これは1の「性格」と密にリンクしています。3つ目が「論理」です。説得が言語そのものに依存して様々な事柄を論理的に説明する方法です。レトリックが対象とするような日常議論においては、1つ目の発言者の性格の影響が大きいとされています(香西、2000)。ひろゆきさんはどちらかといえばこのようなレトリックを重視しているのではないでしょうか?
一方、米山さんは、自分が置かれている社会的な立場と、議論の対象はあくまでも切り離すべきだと考えています。これは一般的に広義の論理学に属する考え方です。「何が主張できるのかという論理」と、「当人の実際の行動」とはともに根拠にも、何ら否定材料にならないのです。自分で売春的行為をしておきながら、売春的行為が悪であると非難する人は、偽善者だと言えるでしょう(ひろゆきさんの言い分)。一方で、ちゃんとそれを自己批判できるので公正な人間とも言えるのです。「不道徳な行為は禁止するべきだ」といっておきながら、同時に「不道徳な行為は自由にしていい」といえば、矛盾した二つのことを言っています。しかし、行動は、主張のように、真とか偽があるわけではないので、互いに矛盾することはありません。行動と行動、行動と主張は互いに矛盾することはできません(三浦、2004)。このように、米山さんの行動と考え方の間には論理的な矛盾はありません。
実際にこの二人を合意に持っていくのは無理かもしれません。そうではあるのですが、司会者がこの二人の議論を中断した時点では、二人はそれぞれの主張の論証構造さえ明示しないまま、互いに理解が深まらないままになっています。つまり、互いに主張をしあっただけであり、その主張に到達するまでのプロセスについてはまった触れていないのです。ですから、相手の理解は深まっていません。議論の前後に何ら新しいものが見えてきません。
二人の根本的対立の背景は、ひろゆきさんはアリストテレス流のレトリックを重視していること、そして米山さんは論理・実践の独立を重視していることにあります。この対立は簡単に和解に持ち込めるようなものではありません。そもそも、議論(議論の構造ではなく)は何のためにするのかという点で、二人の意見は異なっているのです。議論の中身ではなく、議論の場がそもそも違っているのですから、話が噛み合うはずはありません。司会者の役目はこの二人の視点を俯瞰して、まとめ、それを当該の二人を含め、参加者、視聴者に「解説」することなのです。ですから、司会者は議論については色々と知っている必要があるのです。